朝8時頃にマンダレーのバスターミナルに到着。ようやく地獄から解放された気分でゆっくりとバスを降りたのだけれど、それも束の間、バスターミナルにはホテルの客引きが多数待ち構えており、唯一の外国人乗客だった僕はすぐに取り囲まれてしまった。困惑したものの、この日泊まるホテルをまだ決めていなかったので、その内の1つ、「ロイヤル・ゲストハウス」というホテルの誘いにとりあえず乗ってみることにした。ここに向かうタクシーに乗り込むと、ドライバーの他に現地人の男性が同乗してきた。ホテルの従業員か何かのセールスだろうなと思っていたところ、案の定、カタコトの日本語で話し掛けてくる。日本のどこから来たのか、何日間ミャンマーに滞在するのか等々定型的な質問が続いたので、会話を受け流していると、彼は名刺を財布から取り出して僕に見せてきた。ガイドブック「地球の歩き方」の編集者のガイドをしたことがあるらしく、その際にもらった名刺とのことだ。最初は嘘だろうと思っていたけれど、名刺の名前と実際にガイドブックに載っている編集者の名前が一致したので、信じることにした。しばらく話していると、彼は自己紹介を始めた。Maung Aungというマンダレーに住むこの男性はガイドを生業としており、今日1日僕のガイドをしたいとのこと。元々マンダレーは今日1日のみの滞在予定しており、駆け足で回る予定だったし、マンダレー近郊の見所アマラプラ、(マンダレーからタクシーで約40分)、ザガイン(同じく約1時間15分)まで足を運ぶためにはタクシーチャーターも想定していたので、彼の提示した30US$で全て回ってくれるという案を受け入れることにした。相場よりも恐らく高いだろうけれど、折衝する手間がそもそも面倒だったので、言い値で決めた。今思うと彼の「『地球の歩き方』トーク」は非常に絶妙だ。一瞬で僕に安心感を与えてしまった。ところで、タクシーが向かっているホテル「ロイヤル・ゲストハウス」を実はMaung Aungは好きではないらしい。オーナーがムスリムだからだと言うのだ。数年前からミャンマーでは度々仏教徒とムスリムが衝突しており、仏教徒である彼はムスリムに手を貸すような真似はしたくないらしい。宗教対立はこのような形で市民レベルに影響するのかと衝撃を受けた。いずれにせよ、今日1日彼にガイドを頼むことに既に決めていたので、機嫌を損ねることもないと思い勧められるがままに別のホテル「ボナンザ・ホテル」へ向かった。エアコン、シャワー、トイレ付でシングル6US$、相場程度なので、泊まることにした。
シャワーを浴びてすぐにホテルを出発。Maung Aungがどこからともなく連れてきたタクシーに乗り込んだ。まず何をしたかというと、今後の移動手段の確保。今回のミャンマー旅行では全行程バスで移動しようと考えていたのだけれど、昨日の過酷な体験の結果二度と御免だと思ったので、マンダレーの次の目的地であるバガンまでは船を、バガンからヤンゴンに戻るまでは飛行機を利用することにした。船の予約は受け付けていないとのことだったけれど、飛行機は旅行代理店で予約することができた。マンダレー航空というローカルな航空会社を利用して、98US$。夜行バスで移動するよりも10倍以上コストがかかるけれど、移動時間も10分の1程度以下に短縮されるので、納得して購入した。
手配が終わると、マンダレーの南約11kmに位置するアマラプラという町に向かう。1841~1857年に都となったこともあるものの、今は織物産業が盛んな田舎町だ。途中で名産の織物工場に立ち寄った後、40分程でアマラプラの一番の見所であるウー・ベイン橋に到着。この橋は160年前にタウンタマン湖に架けられた、全長約1.2kmに及ぶ木造の橋だ。Maung Aungやドライバーをタクシーに残して、1人でゆっくりと徒歩で往復することにした。とても簡素な橋だけれど、この上から見える風景は絵に描いたように美しい。真っ青な空と湖畔の新緑の田畑、これらのコントラストを光輝く水面が彩り、牧歌的な風景を作り上げている。この風景に溶け込むように、人々は日々の営みにのんびりと取り組んでいる。湖上の小さい船の上で釣りや漁やする人々、湖畔の水田や畑を牛を使って耕す人々、橋の上を荷物を持って行き交う人々。全てが喧騒という言葉とは完全に無縁で、時間がゆっくりと流れているようだ。橋を渡った先にあるチャウットーヂーパゴダを見学して引き返した頃には、かなり心が癒されていた。
こうしてアマラプラを離れて、次にタクシーを40分程走らせて向かった先はザガイン。1315~1364年、1760~1764年の2回、短期間に渡って都となったことがある町だ。この町の唯一にして最大の見所はザガインヒル。ザガインの町外れにある小高い丘で、全体が150以上のパゴダと僧院で覆われている。丘を登って周りを見渡すと、まさに圧巻。中腹から麓にかけて無数のパゴダが林立し、その背景には雄大なエーヤワディー川と平原が広がっている。ところで、この丘の頂上付近には日本人によって建てられたパゴダがある。小説「ビルマの竪琴」で有名なように、ミャンマーは第二次世界大戦における日本と連合国の大激戦地だった。そこで戦死した兵士のために、遺族や元戦友たちが建てたものだという。実際にこの日も年配の日本人団体観光客が訪ねて来ており、パゴダの中で祈りの儀式が行なわれていた。僕も戦争の悲惨さを想像し、しばし目を閉じてみた。
ザガインヒルを離れると、マンダレーに戻り市内の見所を回ることにした。ところが、アマラプラとザガインの圧倒的な美しさを目にした後だったからだろうか、マハムニパゴダ(マンダレー最大のパゴダ)、シュエナンドー僧院(チーク材を贅沢に用いた見事な木造建築の僧院)、旧王宮(ミャンマー最後の王朝となったコンバウン朝が建てた王宮)といった観光名所を見て回っても全く心動かされない。写真を撮るだけですぐに立ち去ってしまった。ただ、クドードォパゴダ、サンダムニパゴダには目を見張るものがあった。どちらのパゴダも中央の塔はそれほど大きくないけれど、境内を白い小パゴダが埋め尽くしている。サンダムニパゴダにいたっては、1,774の小パゴダが境内に林立しており、とても不思議な光景だった。
この日の最後の見所は、マンダレーの東北にぽっかりと隆起した標高236mのマンダレーヒル。丘全体が寺院となっているマンダレー最大の聖地なのだけれど、観光客には絶好の夕日を眺めるスポットとして有名だ。実際丘の頂上付近には既にたくさんの観光客がいた。その中に、ザガインヒルで見かけたのと丁度同年代の、年配の日本人団体観光客がいた。何のきっかけか忘れたけれど話し掛けられたので返事をしていると、おばあさんの1人が僕が孫に似ていると言い出して、なぜか記念撮影を一緒にすることに。とても感じのいいおばあさんだったので悪い気はしなかったのだけれど、僕と写真を撮ってどうするのだろうと不思議な気分だった。そうこうしながら、沈みゆく夕日を眺めた。
その後はホテルに帰った。翌日、バガンに向かう船は早朝5時に船着場から出発するので、間に合うように早朝4時30分にホテルからのピックアップを依頼して、Maung Aungと別れた。夕食はホテル近くのパブで、ビール2杯とBBQを少し。ヤンゴンで飲み食いしたものとほぼ同じ味だった。食後ホテルに戻ると、前日バスであまり寝られなかったし、翌朝も早いのですぐに眠りに落ちた。
この日ガイドを頼んだMaung Aungとはかなり親しくなることができて、衝撃的な彼の身の上を聞くことができた。もちろん彼にとっては僕はビジネスの相手だけれども、他愛もない冗談をお互いに言い合ったり、プライベートなこともたくさん話すようになったのだった。忘れがたいほどに衝撃的だったのは、彼が日本人女性と婚約中だということだ。なかなか複雑な事情になっている。婚約者の日本人女性は現在千葉在住。1年前まで明治学院の大学生で、NGOを支援しているサークルのメンバーの一員としてミャンマーに来て、Maung Aungと出会ったとのことだ。恋に落ちた2人は愛し合うようになったのだけれど、彼女が日本に帰国後、妊娠が発覚、彼女は1人で日本で子供を産むことになった。Maung Aungは結婚を決意して訪日を試みるものの、それを日本、ミャンマー両国の当局の方針が阻む。日本は移民の受け入れに対して非常に慎重で、一方のミャンマーも軍が政権を握っており国民に対して自由な国内外の移動を認めていないので、ビザを容易に取ることができないのだ。婚約者の写真や子供の写真、やり取りしている手紙やE-mailのコピーを見せながら、訪日を強く願っていることを伝えてきた。外国人移民問題は日頃からニュースでよく耳にするのだけれど、実際にその一例に遭遇したようだ。
渋谷さん、はじめまして。
先日偶然このHPを見つけて読ませていただきました。
ミャンマーを旅行された日から随分たったと思うのですが、マンダレーのブログに登場するMaung Aungという人物のことで少しコメントしたいと思います。
渋谷さんの書かれたブログに登場している、Maung Aungと婚約中になっている日本人は私です。
実は昨年結婚し、彼が来日しましたが、昨年中に離婚しました。
渋谷さんが会った彼はとてもいい印象だったと思います。
私もそうでした。
しかし私と彼との間には「続き」があったのです。
渋谷さんに彼の本性をぜひ知っていただきたいと思い、メールしました。
個人的にメールしたいので、私のアドレスにメールしていただけませんか?よろしくお願いします。
お忙しいところ失礼いたしました。
投稿情報: Are Nyeing San | 2006-03-26 18:57